生まれて初めて鯉を釣り上げた創成川の下水道科学館前。今でもそこは最高の思い出の場所であるが、同時にはじめて悔し涙を味わった苦い思い出の場所でもある。

 中学ニ年の初夏のこと。

 鯉釣りをはじめて一年と数ヶ月、何匹かの鯉をこの場所で釣ってきたが、使っていた古いルアーロッドではやりとりに限界を感じ、新しく投げ竿を2本買い、そのしなやかな弾力でダンゴエサを鯉の通り道と思われる場所にスポンと打ち込んだ。

 初夏といえども、この日は真夏日で強い日差しが肌を刺す。ここ連日このような強い日差しの日が続いている。毎週々々創成川に来ては鯉を狙うので、真っ黒に日に焼ける。でもひりひりとする痛みにももう慣れた。なんだっていい、とにかく鯉が釣りたかった。あのズッシリとした重量感とトルクのある引き。何度でもそれを竿を通して全身で受け止めたかった。このときの私はいまの私にない情熱をもっていた。

 ピリリリリリ♪

 自作のバイトアラームの音が釣り場の空気を切り裂いた。一瞬で私を戦いの世界に引き込むアラームの音。竿に飛びつきファイトを開始する。

 一瞬だけチラっと魚影が見えたが、これは大きい。ドラグを締め、両腕でバットを掴むと、竿は大きく曲がり、ヒュンヒュンと悲鳴をあげた。魚は締めたはずのスプールをガリガリまわしながら走りる。

 「おお!安田くん、デカイのかかってるじゃん」

 後ろから聞き慣れた声が聞こえた。

 創成川で知り合った鯉釣り師のおじいさん2人組みだった。竿を出し、ファイトしているのは土手の上で、目の前には高い欄干がある。ファイトしながら欄干を越えるのは大変なので、タモ入れを手伝ってもらえるよう頼んだ。


 魚はだいぶ弱ってきたのか、岸近くで静かにあがいている。そろそろだ。おじいさんにタモを渡して土手を下りてもらった。抵抗が弱まる魚を、タモを構えるおじいさんの方へ誘導する。しかし魚は最後のひとっ走りで背の高い植物が生えている小さな茂みに入ってしまった。だが、その茂みはこちら側の岸のコンクリートに根を生やしているのだ。なんら問題はない。

 おじいさんはタモで草を切り分けて、魚を探す。茂みの中で水が割れる音がした。

 おじいさんが言う 「鯉だ、デカイ!メーターはあるか?」

 もうひとりのおじいさんも言う 「いやメーターは言いすぎだけど、90ありそうだぞ!」

 「よしっ!」竿を持ちながら心の中でガッツポーズ。

 しかし問題があった。

 「安田君、鯉がタモに入らねぇ…」

 タモは50センチ枠で、網の深さも足りなく、全長だけでなく胴回りも太い鯉を入れるには難しかった。

 「そのタモじゃ小さすぎますか?」

 「うん。どうしようかな。魚はすぐ近くにいるんだけど、上がんないよ?」

 「無理に上げなくてもいいですよ。ギリギリ手が届くところまで寄せて写真撮ってからプライヤーで針外しますから。」

 近くで見ていた小学生に竿を持っていてもらい、カメラとプライヤーを持って小走りで土手を降りる。

 土手を降りる途中、チラっと、倒れた葦の葉の中で横たわる魚が見えた。見たことない大きな鱗・・・。息をするのも忘れるくらいの高揚。

 上がらないのでは検寸はできないが、写真は撮れるし、リリースは私が落水覚悟で護岸に生えている葦の根に足を掛けながら手を伸ばせば、プライヤーで針を外せるだろう。

 しかしそれは一瞬の出来事だった。やっと私が土手を降り終えたとき、

 バン!と金属音がした。

 ボゴンっと茂みの中から水しぶきが吹き上がる。

 プライヤーリリースするため、なるべく寄せようと、竿を預けた小学生に糸を張ってくれと頼んでいた。しかし竿から出ている糸は力なく垂れている。

 おじいさん達がみつめる葦の茂みには、もう何も居なかった。

 「仕掛けが切れちゃって・・・悪い、逃がしてしまった。」

 「デカかったのになぁ」

 私が土手を降りている最中、おじいさんが持っていたタモ網が鯉の体に触れ、驚いた鯉は急に体を反転させたようだ。

 「いえいえ、おじさん達のせいじゃありませんよ。どちらにしろ僕ひとりじゃ上げられなかったと思います。ありがとうございました。」

 そう礼を言い、「いやぁ~、くやしかったですねぇ~」と手伝ってくれたおじいさんたち、小学生と話しをする。

 しばらく時間が経ち、釣り場には私以外だれもいなくなった。千切られ、管がひとつ無くなったスイベルを見ながら、土手に座り込む。もっとあの鯉の姿を見たかった。写真も撮りたかった。ランディングはできなくとも針は外してやりたかった・・・。私が鯉を甘く見すぎていた。もう1サイズ大きなタモが店にあったのに、「これでいいや」と買ったタモ網。もっと大きなタモを買っていれば・・・。新品の大きなスイベルがあったのに「大丈夫、大丈夫」と仕掛けに使った古びた小さなスイベル。もっと丈夫なスイベルを使っていれば・・・、問題はなかったはずだ。

 時計についているデジタル温度計は直射日光で38℃と示していた。炎天下、ひとり呆然とする。

 「くやしい」

 熱中症にかかってしまったのか、頭がくらくらする。
 でもそんなことどうでもいい。はじめて味わったこのくやしさに比べると、そんなこと大したことではなかった。


 この体験から、ますます私の釣りへの情熱は燃え上がった。

 これと同じような体験をして、本気でこの道を歩むことになった人は少なくないだろう。この一時の「くやしさ」は今につながる釣り人のエネルギー原になるようだ。